中国から帰ってきた人のブログ。
中国から帰国した後の生活をつづるブログ。読書、映画、音楽、日々のできごと等々記録していきます。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
とにかく自己否定が強い。
考え始めると、思考のループにはまる。
ひとつ不安なことがあると、=全部ダメ、におちいりがち。
・危機感
前職で体調が悪くなったのは、この自己否定感が大いに起因している。
ストレスの少ない学生生活で、この状態(後述)では、働きはじめてからまた二の舞になってしまう。
なんとか修正していきたい。
修正のヒント
『うつぬけ』
ゆうメンタルクリニック院長 ゆうきゆうさん
うつになる方の傾向として、認知がゆがんでいる方が多いですね。
例えば、クラスの2~3人に嫌われただけで「みんな私のことが嫌いなんだ」、とか
たまたま買ったパソコンが立て続けに2台壊れたことで「パソコンには向いてないんだ」とか。
修正するには?
→日記を書くこと、です。
ただ、漫然とつけているだけではだめです。
起こった事象と、それについて思ったこと、をペアで書くこと。
後で見返したときに、「仕事でミスしただけで会社を辞めないと、、とか、死なないと、、とか、思うなって、昔の俺考えすぎだよ!笑っちゃうね!」と客観視できるようになります。
認知の歪みを修正する訓練にもなるのです。
実践
今朝のわたし
・土日にやるべき課題ができておらずイライラ。
・ご飯を炊いて、洗濯物を干す。(両親は寝ている。何でわたしがやらないといけないの(怒)とイライラ。)
結果的に、両親に対して不機嫌な口調で接することで、父親もイライラとなり、悪い循環に。
電車に乗ってからは「課題ができていない。わたしなんてダメだ、こんな年齢にもなって何してるんだろう。。。STになる資格なんてない。死にたい(口癖)。わたしなんて死ねばいいんだ(口癖)」
→反省
・課題ができていないからといって、STになる資格が無くなるわけではない。
・朝方、低血圧で期限が悪い、頭がボーッとしている状態で、やるべきことを残しすぎてしまった。
朝にすべて出来なかったのはわたしの能力不足ではなく、スケジュール管理の不備。
→改善
・後悔して自分を責めるのではなく、やるべきことを整理し、考え、実行する。
・時間割りをたてる、課題、その他手続き等は前日の夜中に終わらせる。
・朝は、頭を働かさなくてもできること(着替え、弁当の用意、洗濯)のみをする。
・勉強するなら早めに家を出て、外でやる。
振り替えって
何度もスピードを出して曲がると車輪の跡がつくように、働きはじめてからの極端な自己否定は、わたしの癖になっている。
何か考え始めると、自動的に自己否定へ話が向かってしまう。「わたしなんて死ねばいいのに」が口癖になっているのがいい例だ。
この言葉が出ているのは、焦っているサインだ。
立ち返って、何がダメなのか考えよう。
また、自分に対する評価が高すぎるのも一因だ。こんなのできて当たり前、と思っているから、何かできても自分を誉めることをしない。
ひとつできたら、ひとつ自分を誉めること。
できていない自分を受け入れ、何かを終わらせたら、すごい、と考えてあげよう。
そして、体が疲れていると自己否定につなげがち。自責のループに嵌まってどうしようもなくなったら、お風呂に入って体を暖め、眠ること。
今日も、行きの電車のなかで1時間たっぷり眠って起きたら、驚くほどに気持ちがさっぱりとして状況をすとんと受け入れられた。
力を入れすぎず、でも抜きすぎず。
働き始めるまでの練習、練習。
PR
学校に通いはじめて、はや2ヶ月が経とうとしている。日々忙しく、でもやはり私は私で変わらずといった感じで過ぎていっている。
◼ゴールデンウィーク
5月1日~4日まで、京都・大阪を渡り歩いていた。大学時代の友達や、京都の知り合い、京都でルームシェアしていた中国人の友達、同期等々に会ってきた。
東京から帰って進路を変えたこともあり、その報告も兼ねて。
会社の同期とは、少し会社の話をした。
彼女は隣の部署で、東京で最も仲の良かった同期だ。新卒生が入ってきたとか、異動になった同期がいるとか、会社は以前通り粛々と動いてるなー、と感じた。
まだ、お店に入って会社で取り扱っていた商品を見たりしてしまう。同期から、「もう見なくていいんだよ」と言われたが、この裏で前の会社の人たちが働いてるんだなー、と思うとやはり気になって目で追ってしまうのであった。
大学の同級生たちは、仕事や結婚や、それぞれ道を決めて動いている。
卒業して5年にもなって、これからお互いの状況も変わっていくんだろうけど、こうして会う時間を作っていきたいなと思った。
◼学校の人たち
クラスは16人しかいなくて、もうそこそこまとまってきた感はあるけど、まだどこかよそよそしさも残る感じ。それはわたしが人見知りを発揮してるのもあるんだろうけど。
やはり、新卒の子、年下の子との関わり、私は苦手だ。。
10歳近く年上の女性のクラスメイトと席も近くよく話す。ゴールデンウィーク前に一度だけ一緒にお茶をした。
もう少しクラスが仲良くなって、全員で国試受かれればいいよね、と言っていて、驚いた。わたしは自分が受かることしか考えてなかったから。
朝早くにクラスで皆が話してるのに加わらず宿題していたが、その話をしてからは、なるべくそこに加わってテスト範囲の確認や分からないところを確認し合うようにしている。そこから、少しだけ周りと話せるようになったかも?
◼勉強
片道2時間、往復4時間の通学時間をどう勉強時間に充てるか、未だに悩み続けている。
ついTwitterやInstagram、漫画を読んだりと時間を無駄にしてしまい、テスト勉強が間に合わなかったり。。
教科書を読もうとするときもあるが、寝落ちすることも多々。
今週から、通学時間はすべて睡眠時間に充てることにしてみた。始発駅からの乗車のため、座れるのだけが救いなのだ。
すると、授業中に眠くならない!
今まで、最前列で爆睡女王だったのに、今週始まってから大分改善された。
家では勉強を優先させ、寝れない分は電車で取り戻す。しばらくこれでやってみよう。
※目指すのスケジュール
5時起床~6時15分出発~8時半学校着~16時半学校発~18時半帰宅・夕飯作り~20時半風呂~21時半勉強開始~24時半就寝
前の職場での尊敬する先輩に、「せっかくその道に進むって決めたお前を、応援して送り出すから、俺らをがっかりさせるような結果にならんよう頑張れよっ」て言ってもらったのを何度も何度も思い出す。
それでも相変わらず、手がスマホに逃げてしまうのだけれども。
自律の習慣をつけないと。
ストレスがたまったりむしゃくしゃすると、つい手っ取り早い現実逃避に走ってしまうんだよなあ。どうしたらいいんだろう。走ればいいのかしら。
◼料理
家のごはんを作るのは、大変でもあり楽しくもあり。
結婚するなり独り立ちするなりしたら、やんないといけないことなんだから、今から効率的なやり方を身に付けておこう、と思いながらやっている。
中でも、作り置きはおすすめだ。
週末に5~7種類つくって冷蔵庫にストック。
下は一例。
◼家族との関係
一緒に住むようになって、やはり問題は出てきている。主には、父との関係。
うちの父ときたら、あまりにもモラハラで信じられないようなことばかり仕出かす。
授業で心理学を学んでいることもあり、少し客観的に見れるようになったのもいいところではある。
ただ、今は金銭的な負担をなるべく父にかけないよう(喧嘩するときの火種になるので)アルバイトを探そうとは思う。ただ、勉強と生活とアルバイトと、バランスの取り方が問題だ。。
◼祖父母
父方の祖父母に加えて、母方の祖母までがアルツハイマー型認知症の診断を受けた。
近くに帰ってきてしょっちゅう顔を見せて、しかもこれから取る資格が今後の介護に活かせるような内容なので、良かったなと思う。
◼瀬戸内海
通学の行き帰りに見る風景。
きれいである。
まとまりがない文章になったけど、近況はこんな感じです。
また、漫画を描いて載せていきたいな。
お金がなくて旅行にはいけないが、これまでの旅行を振り替えってエッセイ漫画を描きたいなあ。
以上。
東京に行く新幹線の中でこれを書いている。
週末に、残してきた家の片付け、荷出し、不動産会社への鍵の返却をしに、東京に向かっている。
今夜、実は取引先の人と会社の上司、後輩と飲みに行くことになっている。
のんびりした岡山の学校生活に慣れきった今、元の会社の人たちと会うのに、結構緊張している。
取引先の人には、伝えるのが遅れたのと、たまたま先方が仕事を休んでいた都合で挨拶ができていなかった。
最後にご飯でも、と誘ってもらったのはとても嬉しい。また会えるとは思っていなかったから。
そしてたぶん、今日聞かれるのが「なんでまた、会社を辞めてまで言語聴覚士の道に?」だろう。
何でだろう。一言での説明がとても難しい。
何となく、面白そうだと思ったから。
何となく、状況がそちらに向いてるなと思ったから。なのである。
元々、就活をするときに指標がふたつあった。
ひとつは、中国語を使った海外に向けての仕事。
ひとつは、地元活性化。
携帯の代理店会社に入ったのは、IT機器を使って地域を活性化させることができるかも、と考えたのと、中国語を使う機会も多そうだったから。結局、中国の拠点は入社後なくなってしまったのだが。
入社して、しばらく携帯ショップの販売員をしていたが、お店の経営には目標が必要だ。あの手この手でお客様へタブレットを、SDカードを提案しなければならない。自分達のお給料のために。
それが面白い人もいる。販売1位になって、それで自分のランクや責任も上がって、お給料が上がって家族を養えるようになる。
でもわたしは、、、もっと、勉強して力をつけて身につけた知識を人のために使うような仕事がしたかった。
中国語でそれができるか?
日本語を話せる中国人たちが多く、翻訳や通訳は低価格化が進む。優れた翻訳者になれるのは一握り、それでも待遇は安定しない。
もうひとつ、地元で生活したかった。
地元で働き始めてからの2年半、仕事以外のプライベートはあまりにもストレスがなかった。友達も、彼氏も、家族も地元にいた。
地元で中国語を使う仕事を探したが、ほとんどなかった。あっても契約社員や派遣。安定はなかった。
そんな折、大学の同級生から言語聴覚士の話を聞いた。言語ってところで中国語をやっていたことが活かせるかも、と思った。(実際はほとんど関係なかったのだが)だから、きっかけは勘違いf(^_^;
ただ、言語聴覚士について調べていたときに、『もしあなたが、絵を描くのが得意なら、患者さんにとってそれは福音です。言葉の理解が難しい、発生が難しい人たちと絵でコミュニケーションが取れるから。』という一文を見て、これは私に向いているかも、と思った。絵を描くのは昔から好きだし、中国でもそれで大いにコミュニケーションはしてきた。
中国語を勉強したのは、文学部で役に立つような知識を身に付けたかったから。ただ、一番やりたかったのは関口智宏の中国鉄道横断紀行の真似事。留学中に、それは存分にやった。中国
を南北東西深夜鉄道に乗って旅をした。しかもそれで、たくさんの友達ができた。
親にお金出しといてもらってわがままなんだけど、それで満足しちゃったのだ。
言語聴覚士の勉強は楽しい。
2年後、社会に出たときの実践に基づいた勉強が出来るから。
で、どんな言語聴覚士になりたいか?成人が見たいのか?小児の発達障害か、認知症か?というと。。
どちらかというと、認知症の高齢者を見たいと考えている。
自分の祖父母や、身近にいるから。
ただ、まだまだ進んでいない小児の分野も気にはなるし、高次脳障害の成人分野もおもしろそうだ。結局、どこにいってもいいんだろう。
はっきりしてるのは、地元で結婚して、就職して、子供を産んで、家を建てたいという夢。そこに今まで会ってきた友達、日本や中国の友達たちを呼んでお迎えしてバーベキューしたい。もてなしたい。地元のよさを伝えたい。
そして子供は色んなところに連れていって、色んな人に会わせて、色んな経験をさせてあげたい。
その為の、安定した生活。
その為の、友達付き合い。
それが、私の今のぼわっとした理想。
そのために、人のために役に立つ、必要とされている仕事につくこと。
言語聴覚士なんていま、超人手不足でしばらく就職先は引く手あまた。
そして、携帯業界みたいにコロコロコロコロ内容が変わらない。患者さんにじっくり向き合ってやる仕事。これ面白いと思うんだ。
なんか、勉強し始める前からあんまり変わってないな。
そりゃぶれてないってことだな。んで、考えてたことが当たらずとも遠からず当たってたってことだな。
良かったよかった、正しい選択だった。
そして、そう思えるようにこれからも頑張るのだ。
週末に、残してきた家の片付け、荷出し、不動産会社への鍵の返却をしに、東京に向かっている。
今夜、実は取引先の人と会社の上司、後輩と飲みに行くことになっている。
のんびりした岡山の学校生活に慣れきった今、元の会社の人たちと会うのに、結構緊張している。
取引先の人には、伝えるのが遅れたのと、たまたま先方が仕事を休んでいた都合で挨拶ができていなかった。
最後にご飯でも、と誘ってもらったのはとても嬉しい。また会えるとは思っていなかったから。
そしてたぶん、今日聞かれるのが「なんでまた、会社を辞めてまで言語聴覚士の道に?」だろう。
何でだろう。一言での説明がとても難しい。
何となく、面白そうだと思ったから。
何となく、状況がそちらに向いてるなと思ったから。なのである。
元々、就活をするときに指標がふたつあった。
ひとつは、中国語を使った海外に向けての仕事。
ひとつは、地元活性化。
携帯の代理店会社に入ったのは、IT機器を使って地域を活性化させることができるかも、と考えたのと、中国語を使う機会も多そうだったから。結局、中国の拠点は入社後なくなってしまったのだが。
入社して、しばらく携帯ショップの販売員をしていたが、お店の経営には目標が必要だ。あの手この手でお客様へタブレットを、SDカードを提案しなければならない。自分達のお給料のために。
それが面白い人もいる。販売1位になって、それで自分のランクや責任も上がって、お給料が上がって家族を養えるようになる。
でもわたしは、、、もっと、勉強して力をつけて身につけた知識を人のために使うような仕事がしたかった。
中国語でそれができるか?
日本語を話せる中国人たちが多く、翻訳や通訳は低価格化が進む。優れた翻訳者になれるのは一握り、それでも待遇は安定しない。
もうひとつ、地元で生活したかった。
地元で働き始めてからの2年半、仕事以外のプライベートはあまりにもストレスがなかった。友達も、彼氏も、家族も地元にいた。
地元で中国語を使う仕事を探したが、ほとんどなかった。あっても契約社員や派遣。安定はなかった。
そんな折、大学の同級生から言語聴覚士の話を聞いた。言語ってところで中国語をやっていたことが活かせるかも、と思った。(実際はほとんど関係なかったのだが)だから、きっかけは勘違いf(^_^;
ただ、言語聴覚士について調べていたときに、『もしあなたが、絵を描くのが得意なら、患者さんにとってそれは福音です。言葉の理解が難しい、発生が難しい人たちと絵でコミュニケーションが取れるから。』という一文を見て、これは私に向いているかも、と思った。絵を描くのは昔から好きだし、中国でもそれで大いにコミュニケーションはしてきた。
中国語を勉強したのは、文学部で役に立つような知識を身に付けたかったから。ただ、一番やりたかったのは関口智宏の中国鉄道横断紀行の真似事。留学中に、それは存分にやった。中国
を南北東西深夜鉄道に乗って旅をした。しかもそれで、たくさんの友達ができた。
親にお金出しといてもらってわがままなんだけど、それで満足しちゃったのだ。
言語聴覚士の勉強は楽しい。
2年後、社会に出たときの実践に基づいた勉強が出来るから。
で、どんな言語聴覚士になりたいか?成人が見たいのか?小児の発達障害か、認知症か?というと。。
どちらかというと、認知症の高齢者を見たいと考えている。
自分の祖父母や、身近にいるから。
ただ、まだまだ進んでいない小児の分野も気にはなるし、高次脳障害の成人分野もおもしろそうだ。結局、どこにいってもいいんだろう。
はっきりしてるのは、地元で結婚して、就職して、子供を産んで、家を建てたいという夢。そこに今まで会ってきた友達、日本や中国の友達たちを呼んでお迎えしてバーベキューしたい。もてなしたい。地元のよさを伝えたい。
そして子供は色んなところに連れていって、色んな人に会わせて、色んな経験をさせてあげたい。
その為の、安定した生活。
その為の、友達付き合い。
それが、私の今のぼわっとした理想。
そのために、人のために役に立つ、必要とされている仕事につくこと。
言語聴覚士なんていま、超人手不足でしばらく就職先は引く手あまた。
そして、携帯業界みたいにコロコロコロコロ内容が変わらない。患者さんにじっくり向き合ってやる仕事。これ面白いと思うんだ。
なんか、勉強し始める前からあんまり変わってないな。
そりゃぶれてないってことだな。んで、考えてたことが当たらずとも遠からず当たってたってことだな。
良かったよかった、正しい選択だった。
そして、そう思えるようにこれからも頑張るのだ。
これからどんなふうになりたいか、自分について考えてみた。
自分の特性って、こんな感じ。
・わたしの武器、長所
真面目、一生懸命、相手のためを思って行動できる、根気強い、粘り強い、人に悪い印象を与えない
・短所
融通がきかない、要領が悪い
長所は、本当にお世話になった取引先の部長さんからも言われた言葉だ。
そのとき、一緒に「姉さんは真面目すぎだ。それは悪いことではないんだけれど、あなたがこれしかないと思って一心不乱に進んでいる道以外にも、目的に達成するための道って何本かあったりするんだ。そして、これしかないと思っていた道よりも、そちらの方が案外簡単に目的へたどり着いたりするんだ。だから、もう少し力を抜いて視野を広く考えてみた方がいい。」ともアドバイスいただいた。
今はすごくピンと来ないんだけど、なにかにつまずいたり迷ったりしたら助けてくれそうな言葉なので、メモしておく。
###########
香川に帰る飛行機のなかで、この文章を書いている。
お世話になった部長さんを思う。
商談の場で、その部長さんに先輩と二人でめちゃめちゃ怒られて、「勉強になります」としか言えない私だった。(営業マンとしてどうなんだって回答なんだけどね。先方の意見にコメントできてないし、判断も行動もできていない。)
でも、その後。また他で、先輩ととある案件のフローが出来ていないと叱られたとき。「お前はまだ、全体像を描くには早い。それは上が見せてやるべき。俺も、若いのにはまず全体像を描いて見せてから仕事を任せる。」とおっしゃっていて、次の日にフローの全体像を書いたExcelが私宛にメールで送られてきた。
先輩も、「俺一人だったらこんなのやってもらえないよ。部長さん、お前には優しいな。」と驚いていた。
私がまだ、営業マンとして未熟で、でも学ぼうとする姿勢があるからそうやって教えようとしてくれていたんだと思う。
「辞める」と挨拶したとき、そうか、頑張ってな、と送り出してくれた。
最終日、案件が完了したときに、部長さんから一通のメールが。
「jukkoさんの苦労が報われた結果だと思います。
退職されましても、新生活のお幸せと更なるご活躍をお祈りします。
ありがとうございました。」
部長さんらしい、言葉少ないけど優しい言葉だった。PCの前で涙が溢れそうになるのをぐっとこらえた。。
飛行機でそれを思い出して、また泣いた。
もう会うこともないだろうが、この出会いがあってよかった。
教えてもらった人への振る舞い方、アドバイスを大事にして、これからに活かしてかなきゃならんと思う。
だから、絶対忘れないようにこうしてメモを取っておく。
自分の特性って、こんな感じ。
・わたしの武器、長所
真面目、一生懸命、相手のためを思って行動できる、根気強い、粘り強い、人に悪い印象を与えない
・短所
融通がきかない、要領が悪い
長所は、本当にお世話になった取引先の部長さんからも言われた言葉だ。
そのとき、一緒に「姉さんは真面目すぎだ。それは悪いことではないんだけれど、あなたがこれしかないと思って一心不乱に進んでいる道以外にも、目的に達成するための道って何本かあったりするんだ。そして、これしかないと思っていた道よりも、そちらの方が案外簡単に目的へたどり着いたりするんだ。だから、もう少し力を抜いて視野を広く考えてみた方がいい。」ともアドバイスいただいた。
今はすごくピンと来ないんだけど、なにかにつまずいたり迷ったりしたら助けてくれそうな言葉なので、メモしておく。
###########
香川に帰る飛行機のなかで、この文章を書いている。
お世話になった部長さんを思う。
商談の場で、その部長さんに先輩と二人でめちゃめちゃ怒られて、「勉強になります」としか言えない私だった。(営業マンとしてどうなんだって回答なんだけどね。先方の意見にコメントできてないし、判断も行動もできていない。)
でも、その後。また他で、先輩ととある案件のフローが出来ていないと叱られたとき。「お前はまだ、全体像を描くには早い。それは上が見せてやるべき。俺も、若いのにはまず全体像を描いて見せてから仕事を任せる。」とおっしゃっていて、次の日にフローの全体像を書いたExcelが私宛にメールで送られてきた。
先輩も、「俺一人だったらこんなのやってもらえないよ。部長さん、お前には優しいな。」と驚いていた。
私がまだ、営業マンとして未熟で、でも学ぼうとする姿勢があるからそうやって教えようとしてくれていたんだと思う。
「辞める」と挨拶したとき、そうか、頑張ってな、と送り出してくれた。
最終日、案件が完了したときに、部長さんから一通のメールが。
「jukkoさんの苦労が報われた結果だと思います。
退職されましても、新生活のお幸せと更なるご活躍をお祈りします。
ありがとうございました。」
部長さんらしい、言葉少ないけど優しい言葉だった。PCの前で涙が溢れそうになるのをぐっとこらえた。。
飛行機でそれを思い出して、また泣いた。
もう会うこともないだろうが、この出会いがあってよかった。
教えてもらった人への振る舞い方、アドバイスを大事にして、これからに活かしてかなきゃならんと思う。
だから、絶対忘れないようにこうしてメモを取っておく。
香川に帰ってきました。
先週はずっと色んな人と飲んで、同期、先輩、部署のみなさんに見送ってもらった。
片付け士ながら本当にこの部屋を出ていく、東京を離れるって言う実感が全然わかなかった。
同期の仲のいい友人に最後、見送ってもらって、「寂しいね」って言い合って、家の近くでランチして。明日から、もうこの場所に来ない実感が沸かなくて仕方なかった。
寂しい気持ちばかりわいていたのだけど。
飛行機の窓から瀬戸内海と島々が見えたとき、「ここに帰ってきてよかった」とふと思って、ほっとした。
家に帰ってお父さんとお母さん弟と、四人で食卓を囲むの、すごいねって言い合った。
これから学校に通って資格を取るまで2年間、お世話になります。とあいさつした。
23時まで、ずっとお母さんと色んなことを話していた。
お母さんが、「あんたを東京にやるとき、迷ったんだけど。いい出会いがたくさんあったみたいだから、行って良かったね。」と言った。その通りだと思う。
先週はずっと色んな人と飲んで、同期、先輩、部署のみなさんに見送ってもらった。
片付け士ながら本当にこの部屋を出ていく、東京を離れるって言う実感が全然わかなかった。
同期の仲のいい友人に最後、見送ってもらって、「寂しいね」って言い合って、家の近くでランチして。明日から、もうこの場所に来ない実感が沸かなくて仕方なかった。
寂しい気持ちばかりわいていたのだけど。
飛行機の窓から瀬戸内海と島々が見えたとき、「ここに帰ってきてよかった」とふと思って、ほっとした。
家に帰ってお父さんとお母さん弟と、四人で食卓を囲むの、すごいねって言い合った。
これから学校に通って資格を取るまで2年間、お世話になります。とあいさつした。
23時まで、ずっとお母さんと色んなことを話していた。
お母さんが、「あんたを東京にやるとき、迷ったんだけど。いい出会いがたくさんあったみたいだから、行って良かったね。」と言った。その通りだと思う。