中国から帰ってきた人のブログ。
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東京へ行ってきました。
沢木耕太郎氏の講演を聞きに。
『一瞬の夏』というタイトルのその本は、一人の黒人ハーフでありボクサーの「カシアス内藤」が、一度はボクシングの表舞台から去るものの、再度復帰して世界チャンピオンを目指すというもの。(BY Wikipedia)
随分前に読んだので詳細は曖昧だが、読了後にバス車中に関わらず涙してしまう程胸が熱くなったことだけは印象に残っている。
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私の本棚は、白いカラーボックスの三段目に位置する。
文庫本を縦に二列並べられる奥行があり、後列には漫画が並び、その前列が私の読書棚である。
そこには10月末から必死に買い集められた百円投げ売りの本のタイトルが並ぶ。
古本屋に行く度に5~6冊の本を手に入れる目的の一つはもちろん読書だが、二つ目にはこの本棚の前列を文庫本で埋めることにあった。
文庫本なら優に25~26冊並ぶ本棚の隙間が埋まるにつれて、私は自分が賢くなったような思いに包まれた。
本棚はその人を表わすというが、このたくさん本の並んだ本棚を見て人は私をどう評するだろう、と悦にいる。
本の内容以前に、これだけの本を読んでいるという事実を本棚に見ることで、自己満足的な優越感に浸るのが私の日課であった。
こうして書いてみると寂しい上に、一人ぼっちの世界で自分を語る悲しさがある…。
とにかく、私にとって読書の目的は、本を読むこと、収集して並べることであったのだ。
東京に行く道すがら、沢木耕太郎の『夕陽が眼にしみる 象が空を1』を読んで、こういう本の読み方があるのかと思った。
これは旅と読書にまつわる文章が、「歩く」「読む」というトピックスによってまとめられた本である。
「読む」の中での彼の読書量は膨大である。いったい本を何百冊読んでいるのだろうと、登場する作品名と作家名の多さに舌を巻く。(これは沢木氏以外の読書記録を碌に読んだことがない私の、偏った意見であることを考慮に入れられたい。作家という人たちは本を読むことが仕事のひとつでもあると思う。また読まないことには文章は書けない…と日本文学史の教授も言っていたし。)
しかし内容は、単に読書記録を羅列することもなければ、一冊の本だけを評すものでもない。
一冊だけを読んだ視点から何かが書かれているということがほとんどないのだ。
作家の別の著作や、作家のインタビュー・エッセイ・日記、作家に対する評論家の言、社会的な品評…等々、角度を変えてその作家と作品を追及する。自らの手で、作家その人と著作を掘り下げようとしている。
いくつか例を挙げれば・・・
「歴史からの救出者 塩野七生」の項では“塩野七生はどうしてそれほどまでにチェーザレを描くことに執着したのだろうか。”という疑問を持つ。著作において塩野七生がチェーザレという人物を題材にした理由を追いかける。
「苦い報酬 T・カポーティ」では表題作を含むカポーティの作品と彼の死後未完で発表された『叶えられた祈り』を通して、作品を生み出した作者の意図を理解しようとする。“私は訳載された『叶えられた祈り』のあまりの無残さから、逆になぜ長い戦いの果てにここに到らなければならなかったのかを知りたいと思うようになった。”
「無頼の背中 色川武大」色川武大と阿佐田哲也という二つのペンネームを使い分ける一人の作家が、『怪しい来客簿』を生み出すに至る道筋をつき止めようと思考を巡らせる。“なぜ色川武大は色川武大として十数年ものあいだ書くことができなかったのか。その「書けない時代」に書いていた阿佐田哲也の麻雀小説に色川武大の風貌との落差があるのはどうしてか。”
沢木耕太郎の文章には常に彼の疑問がある。
その背景には、ノンフィクション・ライターである沢木耕太郎の、対象を正確に描こうとする真摯な姿勢と責任感があるのだと思う。
先日の講演会は、「スポーツを読む」という日経新聞社主催のシンポジウムの中で、基調講演として沢木耕太郎が招かれたものだった。
スポーツの書き手の立場から、最近のスポーツ紙に人称のない文章が溢れていることを指摘する。
例えばロンドンオリンピックで銀メダルを獲得した水泳の、入江選手について書かれた記事。
メダル獲得の事実や彼のコメントが並ぶのだが、文末にふと「もう、泣き虫王子とは言わせない。」という一文が出てくる。
入江がそう言ったのではないし、誰がそれを言ったのかは書かれていない。
無人称の文章とは、誰も発言の責任を取ることができない、根拠のない無責任な文章ではないのか。
読み手がその文章に反発しようにも、「誰が」言ったのか分からないため、反論もできない。
読み手との距離をわざとぼかすような無人称の文章は、ひとえに書き手の摩擦・責任を避けようとする気持ちから書かれているのではないか…。
今年の日本シリーズの第5戦。
巨人対日本ハムがお互い2勝で迎えた大事な場面で、巨人の加藤という選手が卑怯な芝居を打った。米国なら大ブーイングだというそのプレーについて、日本のメディアは大きく取り上げはせず、むしろ加藤を擁護する記事さえあった。
「なぜ加藤はそんなプレーをする必要があったのか?」
その点について取材すれば、きっと多くの内容を伴う記事を書くことができるだろう。
日本のメディアがそれを下手に書きたてないのは、勇気がないからではないか。自分の責任で、世間の解釈を覆す物語を作るのが怖いからではないだろうか。
「なぜ加藤はそんなプレーをする必要があったのか?」
なぜ?という疑問を支えるのはやはり、沢木耕太郎の、文章への責任感なのだと思う。
無人称に溢れるスポーツ紙への諫言の様も、もちろんそこから生まれてきているものだ。
帰り道に、神保町で入手した『檀』(1995年、沢木耕太郎著)を読んだ。
檀一雄夫人を描いたノン・フィクションだが、そこには書き手の「私」の姿が無い。
檀夫人の一人称で物語は進んでいく為、読み手は檀夫人の自筆であるかのようにすら感じるが、しかしその中にも「あ、沢木耕太郎がいる」と思う瞬間がある。
「檀(一雄)は、終わりが近づくにつれて『火宅の人(檀一雄の遺作)』を書けなくなった。それはなぜだったのか。」
「檀は『家宅の人』で何を書こうとしたのだろうか。」
檀夫人の皮をかぶって、この疑問を発する沢木耕太郎が見える。
この作品は、檀夫人への1年がかりのインタビューを経て書かれたものらしい。
もちろん内容の多くは檀夫人の話を整理したものであるだろう。
しかしこれらの質問をしたのは沢木耕太郎だ。
読み手は彼の視点から檀夫人、また檀夫人目線での檀一雄を見ることができるのだ。
登場人物の皮をかぶって作者の姿が見えたことが、村上春樹の『ノルウェイの森』でもあった。
出てくる女登場人物があまりにも主人公に都合よく、「こんな女いねーよ」と思ってしまった。
男が書く女子だよなあ…とあまり好きになれなかった。
女性登場人物の皮をかぶった作者の姿が見える気がした。
それに比べると、例え物語の中に皮をかぶった沢木耕太郎が見えてしまっても、そこには「真実を掘り起こそう」という視点がある。
だから彼の姿が見えても納得できるのだと思う。