中国から帰ってきた人のブログ。
中国から帰国した後の生活をつづるブログ。読書、映画、音楽、日々のできごと等々記録していきます。
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昨晩はなんかぶちっときれてしまって、お風呂で泣いてしまった。
正直、そこまでたまっていたことに自分でも驚き。
昨日小一時間愚痴が聞こえてきたのと、カンフーにいって体力的に疲れたのと、家に帰って汚れたままの台所、積み上がった洗濯物を前にテレビを見る母見て「またわたしがやらないと行けないのか」と止めを刺されたようだ。
その様子を見た母が、「しんどいならカンフーやめれば」って、そーゆうことじゃないんだよなぁ~
今朝は、母がお弁当を作ってくれ、父が駅まで車で送ってくれた。
そういうところにも、家族のありがたさは感じつつ、この情況どうにかしなけりゃまずいなぁ、、、
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愚痴です。
人間関係に疲れてきている。
最近、学校でグループ発表が続いている。
20人以下の小規模クラスなもので、1グループも4人程度。
みんな忙しいなかこなしてはいる。が、やはりグループワークは意見の衝突する場、あっちやこっちやで小さな問題が勃発しているよう。
さっきまで、一人資料の準備をしていたのだが、同じ部屋にいた人たちの愚痴が聞こえてきて、、、1時間ほど隣でずーっと愚痴。資料に集中するので疲れてしまった。
どうやら、4人中の1人のこだわりが強く、意見がまとまらないようである。
あの3人にはなかなかまとまらないという苦労の分だけ愚痴があるのであろう。
私だって、同じグループになったらイライラするかもしれないし。
と、考えながらもやっぱり女の世界は怖いと感じる。3人でぶつくさ文句をいいながら、1人へのLINEを返していく。普段はもちろん優しく普通の態度でありながら、いないところであれだけ言っているのがそら恐ろしい。
当然、私のグループでも、愚痴タイムはある。
私以外の3人が新卒のグループ。
新卒のうち2人が女子、1人が男子。
女子の1人のぶっちゃけトークがとばすとばす、それはもう。
グループ内ではなく、クラスの、癖のある人達に対しての愚痴である。(わたしの知る限りは、グループはうまくいってるようだ。「知る限りでは」。)
そこまで周囲のことを気にして生きてたらしんどくねーか、と私は思いながら同調する。
なかには、普段わたしが仲良くしている人の愚痴もある。その人は、少しこだわりが強い。勉強方法も独自のもので、また、いろんな知識を持っていて、それを周囲に話したがる。それが、うっとおしく感じられているようだ。
わたしもめんどくさいなと思うことはあるけれど、そこは「そうですね」とスルーしている。
あとは、結構人の話をふむふむと聞ける性分なので、人より気にならないのだと思う。
なにがいやって、同調したあとの罪悪感ね。
もー、めんどくさい。
わたし、自分のことで精一杯だから。そんなに人のこと気にして生きていけないわ、って言えたらどんなに楽か~。
前の職場はもっとすごかったし、わたしは相当言われてる立場だったから、今の方が楽といえば楽なのだけれど。
人の愚痴を言うのって本当向かないわぁ。
何も見ざる聞かざるで生きていけたらいいのになぁ。
最近、人ってなんで死ぬんやろうって思う。
今年の7月15日、父方の祖母が亡くなった。
6月末に入院して、どんどん食事がとれなくなって痩せ細り、最後は兄弟子供孫一同に取り囲まれての往生だった。
お医者さんから余命を告げられていたから覚悟はしていたけれど、やはり辛くて寂しかった。
今でも度々仏前に訪れて祖母に語りかけるけれど、当然のことながら祖母から帰ってくる言葉はないし、読みかけの文庫本、履いて帰る予定だった祖母の靴、がらんと整理されてしまっていて、この世のどこにもいなくなってしまったんだなぁと思う。
それまでは少し幽霊を信じていて、妄信的に死んでもまだ、祖母との関係は続いていくものと思っていた。ご先祖様は見てくれている、と。
でも、幽霊になった祖母に会えるわけもなく。
最近は、幽霊って言うのは生きていた頃に残した思いなんだろうなぁと思う。
死んだら人はなにも生産できないし、感情を感じて思考する脳が燃えてしまったら、後には本当になんにも残らない。
同じような日常が続くなかで、毎日あまりなにも変わらないようで、実は時間が経ってしまっていることに怖さを感じる。
昨日、従姉妹のお姉ちゃんが誕生日で、35歳になった。「もう、40歳やん。ちっちゃかったのになぁ。」と言ううちの母はもうアラウンドシックスティーで、「当然やな、あんたがもう30歳近いんやから」と私に言う。
お母さん、従姉妹のお姉ちゃん、わたしの関係は変わらないけど、みんなが平等に年を取っていく。
人生は自己満足なんかもしれん。
死んだらなにも無くなることは分かってる。
死ぬときに、他と比較してどうこう言うんでなくて、自分が、これで良かったわ、と思って死ねたらそれでええんやと思う。
やから、そこまで続く長いルート(そうとも限らなくて、明日は無い命なんかもしれんけど)
死ぬ段が来るまで、満足できるような人生が送りたいわ、って、そう思った。
話は飛ぶんだけど、前にもブログでかいた70代の先生。
今日も授業があり、言 語聴覚.士の歴史を辿って話してくれた。国家資格に認定されるまで、先生が関わって築いてきた部分もあり、生きる伝説と呼ぶにふさわしい。
本当に、医学と教育の狭間にあって、勉強せなならん範囲がとても広い。でもとても勉強しがいのある、面白い仕事ですよ。そして医療職のただの補助やない、誇りある仕事です。あなたたちは一生懸命勉強するんですよ。自分のためやし、もちろんそれは患者さんのためですよ。と。
先達が、そういう風に言ってくれる仕事に向けて勉強できて良かったな、と思った。
お店で売り上げのために携帯売るよりも、やはりこっちの道に進んでよかった。
ほならまた、一生懸命勉強しましょかね。
今年の7月15日、父方の祖母が亡くなった。
6月末に入院して、どんどん食事がとれなくなって痩せ細り、最後は兄弟子供孫一同に取り囲まれての往生だった。
お医者さんから余命を告げられていたから覚悟はしていたけれど、やはり辛くて寂しかった。
今でも度々仏前に訪れて祖母に語りかけるけれど、当然のことながら祖母から帰ってくる言葉はないし、読みかけの文庫本、履いて帰る予定だった祖母の靴、がらんと整理されてしまっていて、この世のどこにもいなくなってしまったんだなぁと思う。
それまでは少し幽霊を信じていて、妄信的に死んでもまだ、祖母との関係は続いていくものと思っていた。ご先祖様は見てくれている、と。
でも、幽霊になった祖母に会えるわけもなく。
最近は、幽霊って言うのは生きていた頃に残した思いなんだろうなぁと思う。
死んだら人はなにも生産できないし、感情を感じて思考する脳が燃えてしまったら、後には本当になんにも残らない。
同じような日常が続くなかで、毎日あまりなにも変わらないようで、実は時間が経ってしまっていることに怖さを感じる。
昨日、従姉妹のお姉ちゃんが誕生日で、35歳になった。「もう、40歳やん。ちっちゃかったのになぁ。」と言ううちの母はもうアラウンドシックスティーで、「当然やな、あんたがもう30歳近いんやから」と私に言う。
お母さん、従姉妹のお姉ちゃん、わたしの関係は変わらないけど、みんなが平等に年を取っていく。
人生は自己満足なんかもしれん。
死んだらなにも無くなることは分かってる。
死ぬときに、他と比較してどうこう言うんでなくて、自分が、これで良かったわ、と思って死ねたらそれでええんやと思う。
やから、そこまで続く長いルート(そうとも限らなくて、明日は無い命なんかもしれんけど)
死ぬ段が来るまで、満足できるような人生が送りたいわ、って、そう思った。
話は飛ぶんだけど、前にもブログでかいた70代の先生。
今日も授業があり、言 語聴覚.士の歴史を辿って話してくれた。国家資格に認定されるまで、先生が関わって築いてきた部分もあり、生きる伝説と呼ぶにふさわしい。
本当に、医学と教育の狭間にあって、勉強せなならん範囲がとても広い。でもとても勉強しがいのある、面白い仕事ですよ。そして医療職のただの補助やない、誇りある仕事です。あなたたちは一生懸命勉強するんですよ。自分のためやし、もちろんそれは患者さんのためですよ。と。
先達が、そういう風に言ってくれる仕事に向けて勉強できて良かったな、と思った。
お店で売り上げのために携帯売るよりも、やはりこっちの道に進んでよかった。
ほならまた、一生懸命勉強しましょかね。
お久しぶりのブログ更新です。
今日あった、ちょっと元気が出た話を。
今週から授業が始まりました。9月一杯夏休みだった訳です。
今日の授業担当は、前期も担当してもらっていた、75歳の元気な女性の先生。背筋はぴしゃん、声量大きくはきはきと、180分話しっぱなし立ちっぱなしのスーパーおばあちゃん先生です。
先生、夏休みは疲れて寝込んでいたそう。その理由が、パソコンの勉強を始めて知恵熱を出したこと。最近は授業中にPowerPointで写真を出したりするんですよ。そのためにも苦手なパソコンを克服しようと本を買って取り組んでいたそう。
相変わらずパワーみなぎる話だわぁと感心していたのですが、そのあとに続けた話がこうでした。
わたしは、パソコン苦手なの。
誰でも苦手や不得意や欠点があるのよ。
欠点のない人間なんてこのクラスにはいないでしょ?
でも、同じように人間何か得意や長所があります。それを伸ばしなさい。
わたしはパソコン駄目なのが欠点だけど、鼻咽腔閉鎖の音の聞き分けは誰にも負けません。(言語聴覚士の先生です)
あなたの長所を伸ばせばいいのよ。それ全部含めて人間です。その代わり、長所や得意やと思ったら他の誰にも負けへんと思うくらい徹底して伸ばすのよ。
。
。
。
。
最近、少し落ち込んでいました。
9月に東京へ遊びにいったわけですよ。そのとき、前職の後輩に会いました。OJTでついてもらっていて、わたしと徹底して合わなかった先輩に、また新人の女の子がついたそうです。「まあ、うまくやってる感じですよ」と後輩は言ってました。
あんまり人を育てるのがうまくない先輩だったとわたしは思うのですが、また新人をその人につかせてるのか、、、と組織の代わり映えのなさに落胆しました。
わたしが辞めたことで、その先輩の後輩指導の評価は下がるだろうなぁと薄々感じていたので。
ただ、思い至ったのは、先輩の評価よりもわたしの悪い評価があって、その状況が生まれてるのではないか、と。jukkoさんは使えなかったけど、新しい子は馴染んでるね。やっぱ、jukkoさんが適正なかったんだね。とか、そんな風に言われてるのではないだろうか、、、
辞めてしまった職場のことを今さらぐちぐち言ってもしょーがないんですが。
一会社の一部署に馴染めず辞めてしまったという後悔というか、負けた感があるわけで。資格が取れて晴れて就職できたとしても、次の職場でも使えない、駄目なやつ、そんなふうに馴染めなくなったらどうしよう、、、、やっぱり社会適合できないんじゃないか、、、とか。もんもんとしていたわけです。
でも、先生の話を聞いて少し元気をもらいました。
欠点があってもいいんですね。
急かされるとテンパるし、優柔不断で遅刻しがちで要領悪いけど、だからといって人生諦めるのではなく。
真面目なところ、真摯に向き合おうとする姿勢を、もっと伸ばせるよう、勉強頑張ろうと。長所を伸ばせるよう、頑張って勉強しようと。
真面目ですね。
はい、真面目ですね。
まぁそんな感じです。
少なくとも前職の営業職よりは向いてると感じているわけですし、怠けないよう復習頑張ろうと思います。
以上でした。
父方の祖母が肺炎で入院した。
6月末のことだ。
施設で、熱があることを、職員さんが見つけたらしい。
こういうことは今までにも何度かあって、昨年の夏にも水が飲めないほどに体力が落ちて入院したことはあった。
東京にいた私は、一週間ほどとらせてもらった夏休みに、地元に帰って祖母を見舞った。
その後、体力を回復させた祖母は退院後、施設へ入所した。
父は、家の近くの施設へ、度々メロンやスイカといった果物を持って祖母を見舞いにいっていた。
そんなことがあったから、今回の入院も、わたしは大袈裟にとらえていなかった。
ところが今日、伯母からLINEがきた。
いよいよ容態が思わしくなく、主治医から余命も告げられた、と。
予想外の展開に、動揺した。
今日は台風3号の影響で、瀬戸大橋線が動くかどうか朝から心配していた。あっという間に過ぎ去った台風の後に晴れ間を見せる瀬戸内海を、マリンライナーに乗って渡りながら、四国へ帰れる安堵感など頭からふっとんだ。
それから、あまりにも、なにも手につかなくなってこのブログを書いている。
今週水曜日と日曜日に会う予定だったが分からなくなった、と彼氏に連絡をしながら、その日に何が起きているのかを想像して恐ろしくなる。急に恐ろしくなった。
大人たち、、親たち、親戚たちがあんなに心配して病室へ見舞いにいくのを見ていた。父の声が暗いのも聞いていた。みんな心配性だと思っていた。また、ばあちゃんは退院するから、そしたら施設へいって昔の話をたくさん聞いておこうとか色々考えていた。
肺炎の怖さも舐めていた。
よりによって、言語聴覚士という、その病気に最も近い職業について勉強をしながら。
インターネットで「肺炎」と調べた。
病巣が広がれば息が出来なくなって苦しみ、最後は呼吸器をつけることになる、と書いてあった。誤嚥性肺炎になると肺に入った(誤嚥した)ものを除去するのも難しい、と。祖母の肺炎のきっかけはなにか分からないが。
授業中に何度も聞いた、「日本人の死因第三位は肺炎」という知識が、頭をよぎった。
肺炎で、本当に、死ぬのだ。
今夜、22時に主治医の話を聞きに行く。
ばあちゃんの顔を見にいく。
人間の聴力は最後まで維持される。
ばあちゃんに、手を握って、話しかけてこようと思う。
馬鹿だなぁ。
いつでも会えるなんていつまでも続かないのに。そんなことは、誰にだって言えるのだ。
だから、会っとかないといけないのに。。
6月末のことだ。
施設で、熱があることを、職員さんが見つけたらしい。
こういうことは今までにも何度かあって、昨年の夏にも水が飲めないほどに体力が落ちて入院したことはあった。
東京にいた私は、一週間ほどとらせてもらった夏休みに、地元に帰って祖母を見舞った。
その後、体力を回復させた祖母は退院後、施設へ入所した。
父は、家の近くの施設へ、度々メロンやスイカといった果物を持って祖母を見舞いにいっていた。
そんなことがあったから、今回の入院も、わたしは大袈裟にとらえていなかった。
ところが今日、伯母からLINEがきた。
いよいよ容態が思わしくなく、主治医から余命も告げられた、と。
予想外の展開に、動揺した。
今日は台風3号の影響で、瀬戸大橋線が動くかどうか朝から心配していた。あっという間に過ぎ去った台風の後に晴れ間を見せる瀬戸内海を、マリンライナーに乗って渡りながら、四国へ帰れる安堵感など頭からふっとんだ。
それから、あまりにも、なにも手につかなくなってこのブログを書いている。
今週水曜日と日曜日に会う予定だったが分からなくなった、と彼氏に連絡をしながら、その日に何が起きているのかを想像して恐ろしくなる。急に恐ろしくなった。
大人たち、、親たち、親戚たちがあんなに心配して病室へ見舞いにいくのを見ていた。父の声が暗いのも聞いていた。みんな心配性だと思っていた。また、ばあちゃんは退院するから、そしたら施設へいって昔の話をたくさん聞いておこうとか色々考えていた。
肺炎の怖さも舐めていた。
よりによって、言語聴覚士という、その病気に最も近い職業について勉強をしながら。
インターネットで「肺炎」と調べた。
病巣が広がれば息が出来なくなって苦しみ、最後は呼吸器をつけることになる、と書いてあった。誤嚥性肺炎になると肺に入った(誤嚥した)ものを除去するのも難しい、と。祖母の肺炎のきっかけはなにか分からないが。
授業中に何度も聞いた、「日本人の死因第三位は肺炎」という知識が、頭をよぎった。
肺炎で、本当に、死ぬのだ。
今夜、22時に主治医の話を聞きに行く。
ばあちゃんの顔を見にいく。
人間の聴力は最後まで維持される。
ばあちゃんに、手を握って、話しかけてこようと思う。
馬鹿だなぁ。
いつでも会えるなんていつまでも続かないのに。そんなことは、誰にだって言えるのだ。
だから、会っとかないといけないのに。。